2025年12月三重県いなべ市でNordisk Mountain Trail INABEが開催され、多くのトレイルランナーで賑わった。同年には「いなべヴェロフェスタ」をはじめとする自転車イベントや、アウトドア・自然体験型の催しも数多く行われ、いなべ市には一年を通して“自然と遊ぶ”アクティビティが日常的に息づいている。
鈴鹿山脈の北端に連なる山々、渓谷美で知られる宇賀渓、そして里山と暮らしが地続きで残る風景。いなべ市の自然は、全国のアウトドア愛好家やランナーから「日本でも有数のアウトドアフィールド」として語られてきた。実際に、トレイルランニングやサイクリング、ハイキングといった多様なアクティビティが同じエリアで成立する稀有な環境は、専門メディアや参加者の声を通じて高い評価を受けている。
だが、いなべ市は、単なる“アウトドアのまち”ではない。いなべ市には、「punkt.coffee」を筆頭としたオシャレなカフェや、銭湯「いなべ阿下喜ベース」、廃校を活用したアクティビティスペース「ういこっちゃね。」、そして多種多様な飲食店や施設、イベントスペースが点在し、まち全体で充実した1日を過ごすことができるようになっている。最近では“その場所でどれだけのリッチでたくさんの体験ができるか”という「ロケーションパフォーマンス(ロケパ)」が重視されるが、まさにいなべ市は“トレランのあとに銭湯とカフェへ”や、“廃校で遊び、食事をしてから山を散策“など、さまざまな楽しみ方ができるまちなのだ。
こうした企画を推進し続けているのが、いなべ市役所の佐藤祐孝さんだ。そんな佐藤さんに想いや企画についてお話を伺った。

佐藤祐孝(さとう ひろたか)さん
三重県いなべ市農林商工部商工観光課 課長補佐
1999年に旧員弁町役場へ入庁後、会計課、その後、政策企画、行政改革、総合計画等の事務に従事し、総合戦略や人口ビジョンの策定など地方創生を担当。現在は、商工観光課として、アウトドアや観光を軸とした地域活性化、関係人口創出、SDGsを意識したまちづくり推進を担当。
「何でもかんでもやっている」——刺さる入口を、増やし続ける
トレイルランニング、自転車、キャンプ、食、廃校活用、子ども向け体験事業、イベント出店。いなべ市で展開されている取り組みの幅広さに驚かされる。
佐藤さんは少し笑いながら、こう語る。
「言葉悪く言うと、“何でもかんでもやっている”ように見えるかもしれませんね。」
一見すると手当たり次第に映るかもしれないが、そこには明確な意図がある。
人がまちと出会う入口は、それぞれ違う。
趣味嗜好が細分化する今、一つの施策に絞ること自体がリスクだと佐藤さんは考えている。
自転車からいなべを知る人もいれば、トレイルランで知る人もいる。キャンプや食に惹かれて来る人もいるし、「廃校いいよね」というひと言から関心が生まれることもある。
だからこそ、入口を一つに絞らない。少子高齢化の時代に、市として存続させていくための危機感を佐藤さんは抱いている。話がいなべ市の未来に向かうと、佐藤さんの言葉はぐっと重みを増した。
「人口減少って今のままでは止められない。いろんなアプローチをしていかないと、まちとして今後厳しいです。」
人口が減れば地域力は落ちる。だからこそこれから必要なのは、関係人口として地域を支えてくれる人を増やすこと。
「まずはとにかく知ってもらわないといけないです。」
観光だけではない。定住、移住、Uターン——それらは短期では実らない。いま、目の前のイベントが、十数年先のまちを支える伏線になるかもしれない。いろいろな取り組みを行い、まちの魅力を“誰にでも同じ角度で見せる”のではなく、“刺さる角度を増やす”。
「“主人公のまち”みたいなことを掲げていて、いろいろな主人公を増やしていきたいんです。」
佐藤さんの視点は、“企画”というより老舗企業の“経営”に近いようだ。温故知新、伝統を大切にしながら、少しずつ革新を重ね、それがまた新しい“らしさ”になっていく。
そこに、いなべ市の強さがある。
トレイルランが生むのは、タイムじゃなく「助け合い」と「再会」

佐藤さんが力を入れているのが、トレイルランニングだ。
行政としては単に来訪者を増やすだけではいけない。
オーバーツーリズムが問題視される今、目指すのは、「訪れる人」と「暮らす人」が摩擦なく共存できる形だ。
「タイムだけを争うんじゃないところが、トレランの魅力かなと思います。」
佐藤さんが語るのは、競技性よりもコミュニティの話だった。
「久しぶり!」と再会が生まれ、情報交換の場になり、時には「ボランティアの人に会いに来た」という理由で遠方から訪れる参加者もいる。
印象的なエピソードがある。
いなべ市でのことではなく、佐藤さんがボランティアとして関わった大会で、親子で参加していた小学生が転倒したときのことだ。順位ではなく、救助を優先して動く選手たち。救急車の手配、コース誘導、連絡の連携——すべてが自然に行われていた。
走ることは、人を速くするだけじゃない。人を優しくする。誰かのために足を止められる関係が、山の中で育っていく。
もちろん山だからこそ、地元の住民にも迷惑がかからない・・・というわけではない。自然の中で行うイベントには摩擦も生まれる。登山者の視線、山の管理者との調整、地元住民の不安。
だからこそ、佐藤さんは「早めの情報共有」を徹底する。
森林組合のSNSやホームページでの告知、注意看板の設置。
問題が起きる前に、丁寧に積み上げていく。
そしてもう一つ、大切にしているのが「役割分担」だ。
事業者が運営やコース整備を担う一方、法的な手続きや許認可は基本的に行政がやる。
「行政って、書類を作るのが得意なんですよ。横の連携もありますし。でも民間の事業者さんが、国や保健所、保険の手続きを全部やるのは大変じゃないですか。」
面倒なことを押し付けない。勝負が早い方が背負う。その姿勢が、関わる企業や人々の「一緒にやる」という熱量になり、地域の挑戦を加速させる。
企画は「思いつき」から始まり、「文脈」で形にする

「テレビを見ていて、これ面白そうだなと思ったらメモする。トイレに入っていて思いついたことも、とりあえずiPhoneのメモに書く。本当に、箇条書きでバーッと。」
佐藤さんの企画づくりは、まずメモから始まる。
面白いのは、そのメモをすぐに「企画」にしようとしない点だ。
書いたこと自体を忘れていてもいい。完成形を急がない。断片を書き溜めておき、それが、後から自分の中で再編集される素材になる。
「どこに書いたかな、って探して。それをもう一回、構成を組み直す感じですね。」
企画のヒントは、SNSやネットにも転がっている。
だが佐藤さんは、流行っているものをそのまま持ち込むことには慎重だ。
「参考にはしますけど、同じことをやろうとは思わないですね。東京でバズっても、いなべでバズるとは限らないし、その逆もあります。」
大切なのは、“流行っているか”ではなく、【いなべの文脈に乗るかどうか】だという。
地形、アクセス、住民の暮らし、年齢層、これまで積み重ねてきた活動。
それらを無視した企画は、たとえ派手でもうまくいかない。
「同じことをやれば成功するかもしれない。でも、それだと“いなべらしさ”は出ない。」
だからこそ、過去に行った企画と照らし合わせながら考える。
これは少し早すぎないか。
これは、今のいなべだからこそ成立するのではないか。
その判断基準は、数字よりも現場感覚に近い。行政の仕事というと、「前例」や「正解」を求められるイメージが強い。だが佐藤さんは、その考え方に縛られすぎない。
「自分ごとにできない企画は、たぶん続かない」
自分自身に問い直す。
これは、自分が参加者だったら楽しいだろうか。
自分の家族だったら、来たいと思うだろうか。
行政の仕事でありながら、発想の起点はとても個人的だ。
だからこそ、みんなが参加したくなる、体温を感じる企画になるのだろう。
いなべ市が面白いのは、イベントの数が多いからではない。
“刺さる人が違う”ことを前提に、入口を増やし続けているからだ。
そして入口の先に、ちゃんと暮らしがある。
パン屋が増え、飲食店が増え、個人事業主が増え、挑戦する人が増えた。
「主人公のまち」という言葉が、キャッチコピーではなく、実感として語られていた。
トレイルランニングは、その象徴だ。
タイムを競う人もいる。だけど多くの人は、景色を見て、食を楽しみ、誰かと再会し、また来る理由を持ち帰っていく。
それはスポーツの枠を越えて、文化になっている。
走ることで、まちがひらく。
いなべは、ただのトレランコースではない。
そこは人が、新しい景色、暮らし、出会い、価値観に踏み出せる、“入り口”なのかもしれない。

画像提供:Nordisk Mountain Trail INABE
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